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原典「平家物語」とは
 
   
 
       
    『平家物語』の成立  
 
 
 
 
 『平家物語』がいつ書かれたのかは、はっきりしない。その存在を伝える最も古い記録は、「『兵範記』紙背文書」である。そこには、1240(仁治元)年に「治承物語六巻〈平家と号す〉」を書写したとある。この当時、「治承物語」と称する六巻の書があり、それが「平家」とも呼ばれていたことがわかる。治承は、1177年8月から1181年7月までの年号で、治承五年に平清盛が没している。現在の『平家物語』では、巻六に清盛の死が記されているのだが、「治承物語」は現存せず、その内容はわからない。次に記録上に現れるのは、「『普賢延命抄』紙背文書」で、そこに、1259(正元元)年に「平家物語合はせて八帖〈本六帖、後二帖〉」を貸し出したとある。その関係を確かめるすべはないが、「治承物語」六巻がほぼ20年を経て「平家物語」八巻になったとも想像される。
 
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
     
 
 
 
     
 
 
 仁治元年以前に、『平家物語』の存在を伝える資料はなく、また現在の『平家物語』は承久三年(一二二一)に起こった承久の乱までも視野に入れているので、その成立を、承久の乱後、一二三〇年代に求めるのが普通である。承久の乱は、後鳥羽院が鎌倉幕府の執権北条義時を追討しようと挙兵したものの、幕府の大軍の前に屈服し、隠岐に流されてしまうという事件である。国王が臣下の武士に敗れ流されるという前代未聞の結果は、当時大きな衝撃を与え、また現実にも、これ以降朝廷の力は衰退していくことになる。そのような、社会の大きな転換を意識せざるをえない時期に、なぜこのような状況になったのかの説明を求めて歴史的回顧の気運が生まれ、その気運に乗って『平家物語』も生まれたのではないかと思われるのである。
  作者についても、はっきりしない。数少ない証言の中で注目されるのは、兼好法師の著した『徒然草』の二二六段であり、そこには、後鳥羽院の御代(一二世紀末〜一三世紀初)に、信濃前司行長という人物が書いたとある。この行長は学識の高い貴族であったが、あることから世を捨て、天台座主(延暦寺の長)慈円の世話を受けていたという。彼が、武士のことや武芸については生仏という東国出身の盲目の僧に武士に尋ね聞かせて、物語を書き上げ、それを生仏に教えて語らせたというのである。
 
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
      
   
 
 
 
 
     
 
 
 貴重な情報ではあるのだが、『徒然草』は鎌倉時代の最末期に記されたもので、『平家物語』が成立したとされる時期からは、ほぼ100年が経過しており、伝承の域を出ず、全幅の信頼を置くことはできない。信濃前司行長という人物も実在を確かめられない。信濃国の国司を経験した貴族であるわけだが、そのような人物が実在しない。ただ、下野前司藤原行長という人物は存在し、この人物のことではないかとも考えられている。この人物は文人として知られ行長を庇護した慈円の兄である九条兼実に仕えていたから、不自然ではない。また、慈円は『愚管抄』という歴史書を著したことで知られ、そこには平家の時代のことについても詳しく書き記されている。また、大懺法院という寺院で平家の人々の霊を鎮めることもしており、平家の滅びについては強い関心を抱いていたであろうと推定される。生仏という盲僧についても、まったく不明であるが、知識人行長と盲僧生仏との合作とするこの説は、高度な歴史的、専門的な情報から、軍語りや伝承までをも含み込む『平家物語』の多様な世界を考える時、魅力的ではある。しかし、結局のところその成立については不明とせざるを得ない。1185(元暦二)年に平家が滅んだ後、それについての多くの記録が残され、あるいは多くの小さな物語が語り出され、伝えられていたであろう。それらが、「平家の物語」としてまとめられたのが1230年代であろうと考えられるのである。そしてその後も、この物語は成長を続けることになる。現在残されているその諸本の多様さがそれを物語っている。『源平盛衰記』にいたっては48巻もある。その過程には、多くの人々がかかわっていたことであろう。それらの人々も、作者という名誉の配分に預かってよいはずである。『平家物語』は、多くの人々の手を経て、私たちのもとに届けられた物語なのである。